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今日も今日とて。

martha.exblog.jp

ダーツと東北楽天ゴールデンイーグルスと合唱にハマってるオンナ、MARのブログです。日々の雑記など書いてます。

またも久々の更新となりますです。
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当たった時からいい年してドキドキだった。

『薄桜鬼集会放送録特別集会仙台編(つなげると長っ!)』@夢メッセみやぎ。

今回の出演者は(敬称略)

土方歳三役:三木眞一郎
原田左之助役:遊佐浩二 ←イチオシ
風間千影役:津田健次郎

のお三方。

今日は全国実業団駅伝もあったりして、うち近辺はバタバタしてた。
そこもベランダからしっかりチェックして、選挙行って投票終えて
その足で福田町から夢メッセまでひたすら徒歩で。
で、帰りも徒歩。
いい運動だったわー。

夢メッセではフォロワーさんにも無事逢えて
(これがキレイな顔立ちの女の子でしたー♪ふふふ♪)
物販見たり今までの収録などで使われたグッズの写真撮ったり。

何もかもが初めてなもんで(薄桜鬼のゲームは最近やってなかったし
アニメも撮ったままHDD破壊のためそのままおじゃん(泣))

フォロワーの若い彼女にいろいろ説明してもらった。
正直、勉強不足でした。ハイ。
でも1枚だけでもCD聴いておいたのは正解。
ある程度の話しはわかったし。
まあ買わないと応募もできなかったわけだが。

物販コーナーで、ファンがスタッフに出演者への差し入れをしていた。
あんなに気軽に受け付けてもらえるんなら、遊佐にずんだプリッツでも差し入れするんだったな。
激しく後悔。

公開録音の会場は会議棟で、思ったよりこじんまりとした部屋だった。
サイトを見たら504席ですか…
ほぼぎっしり。

あたしの席は運よくC-14。
3列目か??と思って行ってみたら確かに3列目。
当然みんな近い。そしてほぼ遊佐さん真ん前の位置!

…ヤッバいよ、これ。
どうしようっっ(///∇//)

3人が入ってきて会場大興奮。
遊佐もミキシンも津田君も近い!近すぎるっっ!!(嬉泣)

いろいろ気付いたことを列挙してみる。

・遊佐顔が小さい!そして男性(しかも1つ上)にこう言うのはなんだけど、
  遊 佐 可 愛 い !!
・ミキシン、 細 っ !
・3人ともしっかりメイクしてた?
・津田くんはしっかり目を見開いてたけど、遊佐はずっと目を細めていたような。
  ライトが眩しかった?
・さすが靴にこだわる遊佐。凝ってたわー。そこらじゃ売ってなさそうな
  ロッカーのようなデザインのシロモノだったw
  今日の服装はスパンコールの刺繍が入った黒Tに白のパーカー。
  パーカーもスパンコールでハートがかたどられていたから、Tシャツもそうなのかな?
・薄桜鬼のCD聴いて、津田くんの笑い声いいなあ…と思っていたんだったが、
  いかんせん彼は「鬼」なので(笑)笑い声が聴けず残念。

遊佐とミキシンは昨日から仙台入りしていて
なんと菓匠三全の工場見学をさせてもらったそうだ。
そして、社員でもなかなか頂けない、出来たて萩の月を食べてきたという…

ミキシンが大の「萩の月」好きとは知らなかった…
(ちなみに遊佐は甘いもの苦手。よく見学行ったな。彼は出来たて食べなかったんだろーか。)

遊佐とミキシンって同い年だし、仲いいんだろうな、きっと。
夜は津田くんも合流して夕飯だったそうだけど、どこ行ったんだろう…やっぱ国分町か?


最初っから最後までホントよく笑った。楽しかったなー。
あんなに笑ったのは久しぶりだ。
そして初めてのイベントで、あんなに間近の席で遊佐とミキシンに逢えたことは
ホントにラッキーとしか言いようがない。
もーちょー幸せ♡

終わってから別のフォロワーさんに逢えて、3人で中野栄駅まで歩いた。
この2人に逢うことも楽しみだったので、それも併せてホントに楽しい一日だった。


さて、これから家の片付け専念しないとダンナに怒られるぞーw


震災の第2弾も書かなきゃです。必ず書きます。まだ覚えてるし。
なんといってもあれは備忘録ですからね。
# by jazzy-m | 2012-12-17 00:18 | 声優
昨日、塩釜みなと祭の前夜祭で、花火大会があった。
昨年は震災の影響でなかったので、2年ぶり。

塩釜の花火はうちの寝室から見られるので
しばしボーっと夫婦で見ていた。

そういえばかつて、ベランダにテーブルと椅子を出して
ビールを飲みながら花火を見てた覚えがあるけど
あれって塩釜の方向ではなかったような…と思ってダンナに聞いてみたら

閖上の花火でしょ。


それを聞いた瞬間からなんだか気持が重くなった。
閖上は、津波の被害が甚大だった場所だ。
塩釜は2年ぶりにお祭りを再開できたけど、閖上はいつのことになるんだろう。
# by jazzy-m | 2012-07-17 01:09 | 季節モノ
古巣の合唱団に久しぶりに遊びに行ってきた。
指揮者の伊集院先生は、あたしをここまでの合唱女子(笑)に仕立て上げてくれた張本人。
一生ついていく!と宣言していたのに、GWHに入って仙台に行くという不義理を働いてしまったのだが(-_-;)

御年66歳の先生のお声は相変わらずハリのあるバリトンで、美しかった!
これが聴けただけでも収穫、と言いたいところだけど、肝心の団はといえば…

ああ、あれからもう20年経ってしまったんだなあ。

という声になっていた。

発声の大切さを再認識した次第。

これまた相変わらずの先生のしつこさにめげずに食らいついて
のびていってほしい、というのが正直な感想だったな。
# by jazzy-m | 2012-06-30 20:44 | 合唱
2日前、一時吹雪だった日。

あの大きな余震が来た日だったのね、と
ふと思った今し方。





…震災振り返りその2、少しずつ書いていきます。
# by jazzy-m | 2012-04-09 19:26 | 雑感
まだあの日がつい最近のようだ。もう1年になるなんて。
時が経つのが早すぎる。

これから、あるだけの写真を載せながら振り返っていこうと思う。
これはあたしの備忘録でもあるから。

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あの日は郵送で届く住民票や戸籍の申請の処理を担当していて
端末操作はあまりなく、ほとんどデスクワーク。
同僚の若い男の子と2人で作業していた。

14時46分。
少しずつ揺れがやってきて、だんだん大きくなりそうな気がして
「ヤバいよ、これ大きいよ」とか言いつつ
2人して机の下にもぐりこんだ。

もう、すごい揺れ。

座っている後ろにはロッカーが並んでいたので
それが倒れてこないよう
机にもぐりながら椅子の傍らにあったキャビネットを盾にして必死で支えていた。
無意識に。

ホントに長い揺れだった。

ようやく揺れがおさまって机の下から出てみると
入力作業をしていた同僚の女の子たちは床にへたり込んで泣いていた。
腰が抜けて立てないという子もいた。
そんな彼女たちを見て「なに泣いてんの!ほら、もう大丈夫だから。」と
冷静に話しかけている自分がいた。
たったひとりだったらあたしもきっとこうだっただろう。

周りは当然しっちゃかめっちゃか。
ロッカーの中身や机の上にあったものが床に落ちていたり。
それでもあの古い建物がよく大丈夫だったなと思う。
まあ区の中枢だからそう簡単に倒れても困るんだけど。

しばらくして一旦外に避難することになり
各自ロッカーから上着を取ってきて
職場の前にある陸前原ノ町駅前のロータリーに出た。

外は雪で寒かった。
そして大きな余震は何度も続く。
近くの街灯が大きく揺れ、地面も揺れていた。停まっている自動車も揺れていた。
そのたびみんなで「うわーまた揺れてるー」などと悲鳴を上げたり。

あたしはとにかく実家とダンナに連絡を取ろうと携帯で必死に電話をかけていた。
ダンナへの電話はつながらなかったが、メールでのやり取りは辛うじてできて
彼が避難中で無事だということがわかって一安心。
神奈川の実家は、必死で何度も何度もダイヤルをしてようやくつながり
取り急ぎ無事なことだけは伝えた。
実家も今までにない揺れだったようだ。

しばらくみんなして外にいたが、やがて職員が出て来てみんなにカイロを配ってくれた。
寒いのでトイレに行きたくなったのでお願いしたら、建物に入る許可をもらえたので
急いでトイレに行くと、手洗い場で髪を洗っている若い女性2人がいた。
話しかけてみると、近くの美容院の美容師と客で
カラーリングをしている途中で地震に遭って水道が止まってしまったので
ここを借りてすすいでいるのだという。
お湯が出ないので冷たいだろうに…と思いつつ
「風邪引かないように気をつけて下さいね!」と声をかけてまた外へ出た。

その後建物に入ると、職員が作業場からみんなロビーに出た。
椅子の上には区長が立ち、一言「これからが大変になると思うが頑張ろう」というような話をして
その後てきぱきと職員に対して指示をしていた。
あたしたちは臨時職員ではなく他会社のパートなので、片付けは手伝っていたものの
特に指示は与えられなかった。
そのまま居ても仕方がないということで帰る許可をもらった。

当然仙石線は止まっているので、歩いて帰るしか手段はない。
うちの近所の1歳上の女性の同僚、一緒に仕事をしていた塩釜の男の子と3人で
ひたすら国道45号線を自宅方面に向かって歩いた。

歩道はところどころ地割れがあった。
45号線沿いは大きな電気屋やコンビニ、ファミレスなどがあるが、当然営業はしていない。
それどころか苦竹のヤマダ電機なんて、壁が一部落ちていたりガラスが割れて
破片がとおりに散らばっていた。
道路は車で渋滞。歩いて帰る人は多くいた。
途中、ウォークマンでテレビの音声を聴きつつ、状況を同僚たちに伝えながら歩いていた。

余震は容赦なく続く。それでも歩くしかなかった。
津波が45号線まで来るとは思っていなかったけど、来たらその時はその時だね、と話しながら。
(津波があそこまで恐ろしいものだなんてその時は当然知る由もなかったわけで…)

途中ダンナが送ってきた、職場からの風景。
こんな状況だから気をつけて帰った方がいいよ、というメールをもらっていた。
ちなみにダンナの職場は、救出劇でTVにもよく出てきた多賀城の某S社。
3月11日がやってきた。今さらあのときを振り返る・その1。_a0024820_217091.jpg

3月11日がやってきた。今さらあのときを振り返る・その1。_a0024820_217185.jpg

3月11日がやってきた。今さらあのときを振り返る・その1。_a0024820_2173242.jpg


1時間半ぐらい歩いただろうか。
家に近づくころには薄暗くなってきていた。
停電なので、周りが真っ暗にならないうちにたどり着けてよかった。
今後の仕事の連絡などもあるだろうから、ということで
塩釜の男の子とメールアドレスを交換して別れた。
※その後彼は、4時間かけて塩釜の自宅に帰ったそうだ。途中津波の影響で遠回りをしたり
津波のきたところを胸あたりまで水に浸かりながら。

家には恐らく入れないだろうと思い…というより停電の中家に入るのが怖かったし
なにより13階まで上がるのがしんどい。
ひとまず、マンションの管理センターに行ってみた。
同じことを考えているのはあたしだけではなかったようで
何世帯かが入口のところに集まっていたので、そこに加わってダンナからの連絡を待つことにした。

管理センターではラジオが流れていた。NHKあたりの、状況を説明するような内容だったかとは思うが
何を言っていたかあまり覚えていない。
途中、待っている人の家族が迎えに来たりしてセンターを出ていく人もいた。
周りには知ってるご近所さんなんかもいなかったし
どうしたらいいかなー、と半ば途方に暮れていた。

やがて、管理センターの機能を維持するために灯油が必要とのことで
提供する人を募っていた。
うちにも確か多少の残量があったので、提供しようと思い
管理人の1人に家まで一緒に来てもらった。
13階まで話しながら階段を上りつつ。

鍵を開けて家に入ったが、しばし言葉が出なかった。

あらゆるものが倒れている。
前に進めない。

とりあえず危険なので土足で上がり、懐中電灯を借りて
モノをよけつつ灯油の置いてある部屋に行ってみたが
とてもじゃないけど中に入りこめなかった。
ただでさえ物置のような状態になっているところではあったけど
手すら伸ばせず、本当に尋常でない状況だった。
管理人さんには「すみません、とても取れる状態じゃないです」と謝り
そのまま管理センターへ引き返すこととなった。

結局ダンナの職場は津波の水が引かず、とても帰れる状態ではないので
一晩会社に泊まるというメールが入った。

となると、さすがに家で寝るわけにはいかないし余震が怖いし
10分ぐらい歩いたところの避難所(小学校)を勧めてくれる人もいたけど
そこはうちよりも低いところにあるので、万が一津波が来たら心配だし
ダンナを待つなら家が見えるところがいいし…ということで
周りにいた数人で、管理センターの2階にある会議室に避難させてもらおうということになった。
ここにいて津波や地震が来ても、自分たちで選んだことだから後悔はないね、という各自の決心のもとに。


そこから、我が家の管理センターでの避難生活が始まった。
# by jazzy-m | 2012-03-11 02:23 | 地元(仙台)ネタ

by jazzy-m